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『学問の神様』菅原道真公を奉る防府天満宮で春の新児童勧学祭

【防府天満宮】

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REA編集部

塚田

4月1日に防府天満宮で行われた新児童勧学祭の模様を取材してきましたのでここに紹介します。地元の稚児たちが、『美しや 紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある』という、菅原道真公5歳のときに詠んだ歌にちなんだ舞『紅わらべ』を優雅に披露されていました。この時期入学を控える新児童たちが新しいランドセルを背負って参拝されていました。

新学期を迎える児童たちが祈願する春の勧学祭

梅と牛に縁の深い天満宮

菅原道真公といえば、日本人なら誰でも知っている「学問の神様」です。


菅原家は古来から学者の人材を輩出してきた学問(儒家)の名門の家柄です。


このため、日本人は菅原道真の由緒ある神社を学問の神様を祀っている神社として奉じてきたのです。


道真はもちろん詩歌の名手でもありました。たとえば今回の春の児童のための勧学祭とゆかりの深い歌は、


美しや紅の色なる梅の花 阿呼が顔にもつけたくぞある


この歌にでてくる「阿古(あこ)」というのは道真の幼少期の名まえです。ちなみにこの歌を詠んだのは道真五歳の時というのですから、驚きですね。


菅原家と天満宮の家紋は”梅”ですから、ここからも天満宮と梅との深い縁が見て取れます。


道真は順調に出世の階段を上り、18歳で文書生(もんじょうしょう)、三十三歳で文書博士(もんじょうはかせ)となりました。


この経歴を見てもわかる通り、道真は最初は学者としてキャリアを積んでいくことになります。


最終的に藤原氏との政争に敗れ大宰府に左遷されることになりますが、その際自宅の紅梅殿(こうばいでん)の庭に出られ、あの有名な詩を詠みました。


東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ


さてこのように道真公の学識は後世でも称えられ尊敬されるようになりました。このため学問の神様として祀られるようになったのです。


このため天満宮では受験や学問に関する行事や祭事がいくつかあります。


その一つが今回紹介する春の新学期の時期に行われる勧学大祭(かんがくたいさい)です。


新しいランドセルとともに学業成就を願う新児童勧学祭

新児童勧学祭は入学を控える新小学生に、学業成就と健やかな成長を、そして登下校の安全を願って行われるものです。


入学してから毎日背負うランドセルも一緒にお祓いするので、皆さん新しいランドセルを持参していました。


今回の勧学祭には地元の児童を中心に全国から30名以上の児童が参加しました。


また稚児として参加されたのが地元の新中学生5名と6年生1人です。


この勧学祭で奉納されるのが天満宮の巫女さんによる鈴舞と、先ほど紹介しました6名の稚児さんによる舞の二つの舞です。


天満宮の巫女さんが鈴舞を披露された後、児童の頭の上に鈴を鳴らして、一人一人の成長と学業の成就を天神様に願っていました。


稚児による舞は「紅わらべ」と呼ばれるもので、一番初めに紹介した道真公が5歳の時に詠まれた歌にちなんでつけられた舞のことです。


主に小学校高学年から新中学生の学業の先輩たちが、新しく入学する児童たちが天神様に見守ってもらえるようにとお祝いの気持ちを込めて舞うものです。


この見事な稚児舞を披露してくれた稚児の方々は2月に行われた梅まつりにも同様の稚児舞を奉納されています。


舞の練習にはかなりの時間を費やすそうで、皆さん優雅な舞を披露されていました。


参加されたお子さんたちも、みなさん行儀よく正座していました。


祭典後には一人一人、学業成就のお守りと記念品が渡されていました。また絵馬に入学後にかなえたいことを記していました。


この勧学祭に先駆けて行われたのが受験のシーズンに行われた合格御礼参りです。


天満宮で合格祈願を行った人たちが無事合格を果たされたときにお礼として再び参拝するわけです。


その祭事の名残がまだありましたよ。


またこの勧学祭が行われた前の日の3月31日は道真公が薨去(こうきょ)された陽暦の日にあたります。


このため天満宮では、この日は御正際(ごしょうさい)と呼ばれる平安時代当時の食事を再現した古代食を道真公の御霊にお供えして、道真公の御霊をお慰めします。


5月には金鮎祭(きんあゆさい)、6月には梅ちぎりと夏越(なごし)神事などがありますので、天満宮への参拝を検討されている方は参考にしてください。


また11月には御神幸際(ごじんこうさい)、通称裸坊祭(はだかぼうまつり)が行われます。


なぜ通称が裸坊祭かといいますと、「裸坊」と呼ばれる白装束(晒姿)の男たちが、道真公の御霊を載せた二体の神輿と大きな御網代輿(おあじろこし)を奉戴しながら、「兄弟わっしょい」の掛け声とともに列をなして進んでいく祭りだからです。


裸坊は数千人にも及ぶ人数が県内外から集まってきます。このためその勇壮さは西日本屈指の荒祭りとして鳴り響いています。


この神事に奉仕できるのは元々は大行司と小行司などに限られていました。


しかし江戸時代中期頃になると天神信仰が高まり、人々の間で自分たちも加わりたいという機運が生じて、身の潔白を証明するために裸での奉仕という条件で供奉が許されたという歴史があるからです。


天満宮以外にも見どころはたくさん!大専坊、芳松庵、春風楼

天満宮にお越しの際には天満宮だけでなく、参道脇にあります大専坊(だいせんぼう)と茶室「芳松庵(ほうしょうあん)」、本堂の隣にあります春風楼(しゅんぷんろう)にも寄ってほしいと思います。


大専坊はかつて明治維新まで境内にあった九つの社坊(社務を司る僧侶たちの詰所)を統括していた場所です。


戦国時代、毛利元就が山口の大内氏を攻める際に本陣を置いた場所としても知られています。


また幕末の禁門の変において、出兵を止めようとした高杉晋作と大将の来島又兵衛が激論を戦わした場所としても知られています。


本堂を向いて左側にあるのが春風楼(通称通夜(つや)堂)と呼ばれる二層の楼閣です。通夜堂とは祈願者が宿泊する場所です。


元々は文政5年に長州藩十代藩主毛利斉煕(なりひろ)が五重の塔を意図して計画された建物でしたが、藩の財政事情より工事が中断、明治六年に二層の楼閣様式として完成をみました。


そのため床下部分に塔建築の様子が残っており、建物としてはとても大きなものになっています。


今は剣道や柔道などの奉納行事や防府市街を一望できる展望台としても利用されていますので、お越しになった際にはぜひここからの眺めを楽しんでほしいと思います。


芳松庵(ほうしょうあん)はお茶に所縁のある道真公を顕彰するために平成3年に建てられた茶室です。


道真公は勅命を受けてお茶に関する故実を調査・研究することで正史にその由来を記しました。


その結果、宮廷に喫茶文化が復活し、その功績から「茶聖(ちゃせい)菅公」と称せられています。


庭内の一角には勤皇の志士が密議を交わした建物である史跡「暁天楼(ぎょうてんろう)」も建っています。暁天楼には幕末、奇兵隊軍監の山縣有朋も滞在しています。


この楼はもともとは「適義楼」と呼ばれていましたが、山縣が「冥昧中に光明発動する」との意を持って改名したそうです。


またその一角には樹齢八百年ともいわれる巨木で御神木のクスノキがそそり立っています。


その威容のほどは写真をご覧になればすぐにお分かりいただけるかと思います。幹周が5.6m、高さ27.5m、葉張36mの巨木は周防一の美楠と呼ばれています。


天満宮境内にはこの御神木を含めて三本の巨木がほぼ等間隔に並んで生えており、境内と長い石段を覆っています。


天満宮の入り口脇鳥居下にあるのが防府市まちの駅「うめてらす」です。


防府市ゆかりの物品や食事も楽しめる場所ですので、参拝の際の骨休みにお寄りください。


防府天満宮
住所
山口県防府市松崎町14−1
営業時間
6:00~20:00
定休日
無休
主な客層
参拝客
平均予算
不明
お問い合わせはこちら0835-23-7700